ファジアーノ岡山とヴィッセル神戸はどちらも、倉敷市の川崎製鉄水島のサッカー部を母体に形作られたクラブである。
2013年にヴィッセルがJ2に降格したときには、ファジアーノ対ヴィッセルの試合は
川鉄ダービーとも呼ばれ、互いのゴール裏に
《ようこそ。川鉄に縁を持つ友よ! 万感の思い胸に今日を戦おう!》
《お帰り神戸。街は違えど我らは兄弟。歴史を共に刻み行こう》
という横断幕が張られた。
リーグやクラブを盛り上げるために仲が良いのはいいことであるが、《当時》を知る者としては、胸にちょっとチクッとくるのである。このあたりのことを少し書き留めておきたい。
といっても私は当事者ではなくて、当時から現在にかけて複数の関係者からたまたま話を聞く機会が何度かあり、しかし皆《当時》の話をあまり詳しくは語りたがらないので、ざっとした話でしかないのだが。
Jリーグの黎明期、日本各地でJリーグクラブを作り出そうという動きがあった。岡山県のサッカー関係者の間でも県内のトップチームの川崎製鉄水島のサッカー部を母体にJリーグ加盟を目指す運動が立ち上がっていた。
ただ問題は岡山サッカー界の中で、方針が、岡山でJリーグを目指すべき派と、経済基盤の弱い岡山ではなく神戸へ移転してJリーグを目指すべき派との、真っ二つに分かれてしまったことである。この二派の対立はかなり激しかった。同じ高校の、それも県を制覇した高校の監督と正GKのOBが岡山派と神戸派の中心人物となり対立するような骨肉の争いがあり、かなり厳しい誹謗の言葉を双方から聞いた記憶がある。
結果はご存知の通り神戸派が勝利し1995年にヴィッセル神戸が誕生する。
後知恵で考えれば、岡山でJリーグクラブを立ち上げるのは理想論ではあるが、
4年後の1999年に横浜フリューゲルスが消滅するような
状況で、岡山でクラブを立ち上げても生き残れたかどうかはかなり怪し
かったであろう。
まして当のヴィッセル神戸が、2004年に経営が行き詰まり、楽天の支援を受けて
チームカラーを変えるまでして生き残りを図る状況を考えればなおさらである。
神戸派の方が正しかったのだ。
ただ、それでも、岡山にJリーグクラブを作りたかった人たちは、
夢を失い、絶望し、岡山のサッカー界はなにもできないのかと、
自分たちで立ち上がるチカラも気力も失ってしまった。
だから岡山の外から木村正明氏がやってくるまで、
岡山のサッカー界は立ち上がることができなかったのだ。
ここから先は妄想の域なのだが、ファジアーノ岡山のスローガン《子供たちに夢を》の裏には、子供たちに夢を与えるためにも、夢破れた岡山の大人たちも再び夢を持てるようにという思いがあるのではないかと思っている。
ま、ただ、ここに書いた話はもう25年も前のである。最初に書いたとおり
今のサポーターたちが、こういう因縁にこだわらず、屈託なくリーグや両クラブを
盛り上げられるのは、良いことであるしうらやましい話なのである。
どんどんやればいい。
ちなみに、この記事は『好きなチームをもつことは好きなマンガをもつことに似ているという話』(Zerofagi note)に触発されて、昔話を記してみたものだ。
また、このへんの話、昔は黎明期のインターネットのあちこちで
語られていたのだが、今検索しても出てこない。
2013年に川鉄ダービーを扱うヴィッセル神戸サポーターのブログでも
ファジアーノに配慮してかなんとなくボカした表現があるくらいなので、備忘録代わりという意味でも書いてみた。
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