落語とアイコンタクト
9月24日に、東北大学落語研究部が大阪と東京から落語家を呼んで勉強会を開催した。番組は以下の通り。
- 剛家茶夢風流(学生) 権兵衛狸
- 笑福亭遊喬(上方落語) 堪忍袋
- 立川志ら乃(東京、立川流)火焔太鼓
- 仲入り
- 志ら乃 粗忽長屋
- 遊喬 住吉駕籠
この勉強会で、素人の学生とプロの落語家を並べて見ることで、上手い落語家はどこが違うかについていくつか発見があった。今回はそのうちアイコンタクト(視線)に着目して延べてみたい。
○マエオキ
(※マエオキとは野村雅昭が提唱する落語のパート分け『マエオキ』『マクラ』『本題』『オチ』『ムスビ』の一番最初の部分で、あいさつや時候の話等。)
素人や前座はマエオキの時に、頭を下げたあと正面を向いたまま話しマクラにとりかかる。
ところが、志ら乃や遊喬は下げた頭を上げるときに、左右上下手前奥に細かく激しく動かして顏を向け、客席の全ての客と目を合わせるような仕草をする。これはこの2人だけではなく、例えば三遊亭好樂(『シブヤらいぶ館』NHKBS10月24日放送で確認)、笑福亭鶴光(『日本の話芸』NHK教育10月21日放送で確認)も同じような仕草をしている。
この仕草は一般的には落語家が客層を見ていると言われているが、全ての客とアイコンタクトを取る(全ての客に「落語家が自分とアイコンタクトを取った」と思わせる)ことに意味があるのではないかと予想している。例えばアイドルがコンサートで数万人の観客全てに、自分と目線が合ったと思わせているように。
○マクラ
落語家はマクラを話す時にも客席の隅から隅まで視線を配り続けている。前述の好樂は向って右からゆっくりと左へワイパーのように顏を回し、また右へ戻るという仕草をマクラの間中続けている。鶴光は、向って左→正面→右→左→正面→右と繰り返す。歌丸にしろ樂太郎にしろ、それぞれやり方は違うが、隅から隅まで視線を配りつづけている。
マエオキの時ほど念入りに視線を配らないのは、一度、アイコンタクトをしているので、軽く配るだけで十分だからではないだろうか。
素人の場合は、正面を向いたまま話すことが多い。前座クラスでも、正面を向いたままか、笑いを取った反応を確かめるときにちょっと視線を振るくらいに止まっている。
○本題 上下を振る時
落語で、人物の演じ分けをするときに顏を左右に振る(これを上下を振ると言う)が、素人にありがちなのが、顏を振ったときに視線が真横を向いてしまい、横の人と話しているようになっている。まるで横にいる仮想の人とコントをしているように。落語家は左を向いたときには正面から左の客に視線を向け、右を向いたときには正面から右の客に視線を向けている。客と視線を合わせ続けている。
コントや(一人)芝居は、客席の方へ話すことはあっても客と視線を合せては話さない。ここが落語と演劇が、大きく違うところじゃないだろうか。どいういう意味があるのかはよく判らないが。
○本題 地の話
落語で会話ではない説明(これを地の話と言う)をするとき、素人や前座は正面を向いて話す。さらにいえば素人は目線が上に泳いで、暗唱をしているみたいになりがちである。
これが落語家になると、地の話をする時にもマクラの時と同じように視線を配っている。好樂はワイパーのように顏を動かし、鶴光は左、正面、右と顏を向ける。地の話は暗唱ではなく、客への説明、客との会話であるから、視線を客に与えることは大事である。
ちなみに講談では、地の話を正面を向いたまま語っている。(神田伯龍 『日本の演劇』NHK教育10月28日放送で確認)この違いは何だろうか。
○まとめ
以上、落語において、素人、前座とプロの、アイコンタクト、視線の配り方が大きく違うことを指摘してみた。客と目線を合わせる力が特に初心者あたりの落語家の力量を測る1つの目安になるのではないだろうか。
これについては、視線を配るから上手いのではなく、上手いから結果として視線を配る余裕ができるという解釈も可能だが、客に伝えると技術としての視線について意識してみることは意味があることだと考える。
それでは同じく演芸の漫才の視線の扱いはどうだろうか。これはまた稿を改めて述べてみたい。
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