カテゴリー「笑芸」の記事

2008.06.09

噺家の演技

東京かわら版の坂東三津五郎のエッセイで、噺家の鹿芝居の指導をしたときの話

噺家さんは空間に相手を作って演じるくせがあるので、相手の人間がいるにもかかわらず、その目を見ないで空を見てしまうとか、(中略)噺家さんの特性をみた思いで楽しかった。

東京かわら版平成20年6月号通巻413号 p3

という感想を述べていた。

以前、「噺家の視線」をまとめたときには、噺家は観客と視線を合わせ続けると分析したが、この三津五郎の感想によれは、噺家が演技をするときの目は1人芝居の垂直の演技のときのように空を見ている模様だ。視線はどうみても観客に向いているので、焦点が空にあるのだろう。

この視線の考察をすすめるにあたっては、実際の噺家さんの意識がどんなんだか確認してみたいな。

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2007.10.02

「日本語の談話の構造分析」を入手

日本語の談話の構造分析
ポリー・ザトラウスキーの談話分析の本を買うてみた。先日の「落語の談話分析の論文について」で参考資料として掲げられた本だ。論文なのでしちめんどくさいが、基本的な概念が丁寧に説明されている。

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2007.09.15

なとりパフォーマンスフェスティバル "ナッサイ"(8月12日)

もう1ヶ月以上も前のことだが、8月12日に名取市の文化会館で行われた、「なとりパフォーマンスフェスティバル “ナッサイ!”」を見てきた。

一番のお目当ては東方落語会だったが、今回も川野目亭南天の「ふるまい酒」だった(笑)今野家なにも・かにもの前説みたいな漫才もグダグダだったが客いじりが楽しかった。

同じ和室で行われた大道芸は、マサヒロ水野のジャグリング。マサヒロ水野は昔、TVジョッキーでビルの上から長い紐のけん玉を成功させて白いギターをもらった人。その放送はなんとなく覚えていた。マサヒロ水野は見てくれはちょっとさえないし、ジャグリングの技のキレは余り無いし(素でなのか演出なのかは分からないが)だが、客いじり、特に子供のいじり方、のせ方が上手くて楽しかった。フツーのシガーボックスのバランス芸だけど、マサヒロのバランスの方じゃなくてアシスタントの5歳くらいの女の子がボックスをちゃんと受け取れるかの方をハラハラと見てしまった。

午後の大道芸ワークショップは同じくマサヒロ水野のけん玉の体験。大人も子供も混じって15人くらいでけん玉を楽しんだ。マサヒロの客いじりの楽しさに乗ってしまって予定時間をオーバーして2時間くらいけん玉をし続けて、膝が笑いそうになってしまった。ずいぶん楽しかったので後日、自分でけん玉を買ってしまいましたよ。

3階の大ホールではパフォーマンス集団白Aのノゾキミシアターをやっていた。大きなタンス2つ分くらいの箱にのぞき穴が4つ開いていてそこから中のパフォーマンスを覗き見するといった趣向。片目で覗いているので、映写機の画像と実際の人間の区別がつきにくく幻想的な雰囲気に。さらに演者と観客の距離が近いので、風を吹き付けられたり、飴玉を渡されたりと、見るだけじゃなく体感する演劇だった。テント演劇的な実験にも思えた。

このすべて無料のフェスティバル、結局まるまる4時間くらい堪能した。いい企画だった。

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2007.09.12

落語の談話分析の論文について

早稲田大学の論文、紀要等を検索するサイトを見つけたので落語で検索してみた。→検索結果:落語
落語の言語学等で知られる野村雅昭の論文などがヒットする。

談話における「話の逸脱」と「修正」 : 落語『厩火事』を例に」「談話資料としての落語-『火焰太鼓』を例として-」「発話機能からみた落語の談話構造」については談話分析の実例が出ていて、どのように分析するのか参考になる。同様の手法で漫才の分析が可能であろう。(漫才の談話分析でグーグル検索するとヒットする論文があるが残念ながら中身が確認できない。)

野村が引用するポリー・ザトラウスキーの発話機能の分類(1.注目要求、2.談話表示...)を利用すると、漫才の型ボケとツッコミを語るための厳密な述語として、あるいは「漫才の分析」で扱ったフリやウケなどの述語をより一般的なものとすることができると思う。

他にも類似の論文等があるにちがいない。こういう先達の考察を幅広く調べてみる必要があるなあ。

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2007.08.26

落語「メジャーリーグ」桂米助

NHKの「笑いが一番」の落語再放送特集でいま見たところ。

アメリカのメジャーリーグベースボールをめぐるエピソードに適度にホラを混ぜて面白おかしく語ったもの。いい感じで筋もなく続くゆるい経験話が実話っぽい所に、あきらかにとんでもないホラが挟まるギャップが可笑しい。

落語2.0で目指している落語ってこんなんじゃないのかな。

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2007.06.21

落語:西行鼓ヶ滝 笑福亭鶴光

NHK教育TV 日本の話芸 2007年6月16日放送

初めて聴く話だった。ストーリー本体には何の捻りもおかしみもない。甚五郎話のような盛り上がりも無い。西行が鼓ヶ滝に行って歌を詠んで自画自賛したら、その日の宿の爺婆娘に添削されて、ふと気付くと宿は幻、これは神仏の戒めとして西行さらに修行にはげむ、という文庫本だったとしても半ページ程度の説話。

これを鶴光が、マクラを語って、ありとあらゆるギャグやらウンチクやらを盛り込むと、あら不思議、30分の大爆笑落語ができあがる。落語、必ずしも物語ならずという例。いや笑った笑った。

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2007.05.30

SEX,HIRO-PON,MIME & ROLL

井の頭公園が誇る世界のパントマイマーデュオ”が~まるちょば”のHIRO-PON(ケッチじゃない方(笑))の8年ぶりのソロ公演を池袋のシアターグリーンに5月19日に観にいきました。

いきなり寝坊して開幕が15分遅れたり、観客席にいるケッチをいじったりというグダグダからだんだん観客をつかんでいくのはさすが。変に芸術に走らずキッチリ笑いを取りながら進めるのは2人の時といっしょでしっかり楽しめました。トイレのトラブル(遠い、満員、紙がない)という単純なシモネタスケッチなのにゴルゴ13のお面をかぶるとどうして笑いが3倍増しになるんだろうなあ。(「ゴルゴさん」)無表情が妙に能弁になる瞬間があったり。

名作の「ドラゴン/怒りのラーメン」(ブルース=リーが燃えよドラゴンのサントラにあわせて、ラーメンを作っていく)、「♪」(楽器を順にあて振りしていき4人バンドを完成させる)など音楽を上手くつかったもの、逆にBGMを消して足音すら聞こえるような状態でマイム芝居をしたり、音に対するこだわりが見えたような気がしました。

2人公演の時には気づかなかったんだけど、1人マイムの芝居は、自分以外の人がどこでどんな状態で存在するか、はっきりくっきり浮かび上がらせるんだねえ。中編「指輪」では、子供や子供の母親が、どんな表情で、仕草で、HIRO-PONの横にいるのかまで見えるようだった。あたかも横に人がいるように自然に自分を演技する独り芝居ではなくて、自分の反応を通じて他人を演技するマイムの技は、不自然かもしれないが、興味深いです。
それで何もない空間に人が見えてしまう人間の感覚って、認識論的にも面白いかも。

11月からはがーまるちょばで初の国内ツアーがあるとのこと。近所でもやるようなので、是非また見てみたい。

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2007.03.12

おすすめサイト:漫才における会話ルールについての考察

富山大学のウェブサイトに面白い笑芸評論を見つけた。

それは人文学部の2005年の卒論・修論にある、宮崎 園子「漫才における会話ルールについての考察」

簡単にまとめると、

まず、漫才の会話を、演者間の構造(演者1⇔演者2)と、演者と観客間の構造((演者1⇔演者2)→観客)に着目して、観客も参加した会話が漫才であるとする。
そして「会話分析」という手法で、2004年のM-1グランプリに出場した漫才師の発話と観客の笑いのタイミングを整理することで、ボケとツッコミのどこでどういう種類の笑いが発生するかを分析する。
そこでツッコミには合図としてのツッコミ、意味や解説を加えるツッコミなどがあり、それぞれ笑いが生じるパターンが違うということが示されている。
さらに、観客が発話するタイミングを示す合図としてのツッコミの逆として、観客の発話=笑いから、演者が発話の順番を取り返す技術があることも発見している。

かなり客観的に漫才の技術が分析されていて、非常に興味深い。掲載されている論文自体さほど長くないので興味がある人は是非とも読んで欲しい。

合図のツッコミという、内容は相手の演者に向いているけど、観客に笑いのタイミングを伝える発話や、その他のツッコミの分類は、先日ここで分析した漫才の視線と合わせて考えると、面白い話になりそうだ。印象だけで話すが、古典的な漫才は、合図のツッコミが多いので、視線も客に向けたままツッコミを入れているような気がする。
会話分析を使用した演者と観客(の笑い)の関係の仕方は落語に応用しても面白い結果がでるかもしれない。


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2007.02.28

イタリアの語り部芸

落語2.0を考える上でのヒントとして、イタリアの1人話芸を紹介してみよう。

テアトロ=デ=ナラチオーネ(伊Teatro di narrazione、英 narration theatre)というその話芸については、講談師の神田山陽が、イタリアでの留学中に興味を持ち、東京かわらばん2006年11月号の三遊亭円丈との対談の中で語り部芸として紹介している。

山陽が述べる、その語り部芸の特徴は以下のとおり。


  • 伝統的な芸ではない
  • 10年前に3人が始めて今は全部で600人くらいの語り手がいる
  • 形式はモノローグ語り
  • 1人で大きな劇場を一杯にする
  • 内容は客を喜ばせるというより問題提起
  • 例えば「ひとつの事件について私が調べた限りのことを話します」って始め、細かいデータを挙げながら、地と会話で繋いで語る。
  • 講談みたい。
  • ラウラクリーノという55歳くらいの女性の語り部が面白かった。「オリベッティという会社を例に、今のイタリアは企業だけが儲けているという問題提起」の話を山陽は見た。

イタリア在住のK嬢に尋ねたところ、wikipediaの英語版に、イタリア語版から翻訳された説明が載っていることが判った。→「wikipediaの英語版のTeatro di narrazione

内容を抜粋すると、


  • この語り芸はここ数十年で発展した。
  • 役者はいない。演技も無い。ただストーリーを語る語り手がいるだけ。
  • 語り手は椅子にじっと座っている。
  • 小道具や衣装を使わない。
  • 舞台上に語り手を照らすライト以外の明かりはない。
  • 時には、語り手に観客の顔が見えるよう劇場全体を明るくすることがある。
  • 1969年のMistero Buffo(Comic Mystery)が原点
  • 語り芸は特にイタリア近代史の暗部に焦点が当てられる。
  • 語りの主題は、テロリストによる殺人事件、ダム災害の悲劇、オリベッティタイプライター会社の問題、第二次世界大戦の連合国のシシリー空襲、ナチスのローマ占領とアメリカによる解放などである

どんな雰囲気かまでは伺えないが、自由民権運動の集会や、学生運動の演説などと似たような雰囲気なんだろうかと想像してみたりしている。落語2.0で岡田斗司夫が目指している内容ってこんなんじゃないのかな。

(2007.03.03補足)


  • 文化庁のサイトに山陽の中間報告のレジメがありました。
    →「第3回文化庁文化交流使活動報告会」(2006年3月8日)
    →「ビデオによる活動報告
    →「同レジュメ(PDF)
    レジュメの中で山陽はこの芸を語り手に注目して「ナラトーレ」と呼んでいます。今後はこちらの呼び方が定着するのかな。
  • 同サイトによると、昨日の2007年3月2日に第4回の報告会が開催され、山陽の活動報告とデモがあったらしいです。どん報告をしたんだろう。早くレジメが出ないかな。

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2007.02.22

立川談志の上下の切替え方について

先日、たまたま録画していた、NHK-BSの「ハイビジョン特集 立川談志 71歳の反逆児」を見ていたら、談志の上下の振り方が独特なことに気がついた。

マクラではそうでもないのだが、放送された『死神』のクライマックスで、談志の上下の変化が異様に早いのだ。

どこが違うのかと思ったら、上下を振るとき、通常は右向きの人物Aの状態から、首を左へ振りながら演技を変更して左向きの人物Bに成りに行き、向き切ったところで人物の変換が終るのだが、談志の場合、人物Aの状態から、顏がちょっと左に動いた時点で既に人物Bに成り代り切っている。遷移状態が無く演技に隙間が無い。見ている我々はカメラが一瞬一瞬切り替わるような臨場感と緊張感を持ち続ける。

例えば、マッチ棒で作った右向きのチリトリの絵が、棒を1本だけ移動すると左向きになる騙し絵のように、右向きの姿勢がその場でグニャッと変形して左向きになるような変化を、談志の身体がするのだ。談志の演技は上下を「振って」るのではなく上下を「切替」ていると言ったほうが相応わしいように思える。

他のベテランの落語家は、この遷移状態の隙間に対しては、振巾を小さくし、洗練した動作で対応しているが、談志の振巾ゼロの一瞬の切替に比べると緊張感や臨場感が一段落ちる感じがする。

この変形の仕方は、多分、先日、映画で見た甲野善紀の井桁変形に近い動きなのではないだろうかと思っている。井桁変形は、大まかにいうと関節を中心にしたドアスイングみたいな身体の動きをやめて全身を細かく割るように動かして、一瞬で身体の向きが変ったように動くことができるという技である。

談志もマクラや賑やかなネタでは大きく顏を動かして上下を振っているので、緊張感のあるネタのクライマックス用の演出のみ「この技」を使っているのだろうが、知れば知るほど、改めて談志家元の凄さを見る気がする。

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2007.02.07

落語2.0への提言

岡田斗司夫がぶち上げた落語2.0だが、ネット界ではほとんど話題になっていない。

落語2.0で検索すると、当サイトごときが岡田の公式サイトの次に出てくるていたらくである。いい評判も悪い評判もほとんどなく、とにかく話題にされていない。

原因はいくつか考えられる。

まず、岡田がなぜ落語2.0で「落語」にこだわるのかが明言されていない。
形式的には2つ述べられているが、『四人の占い師に「落語家になる」と言われてる』(月刊岡田斗司夫3号,p14)だったり、『観客が目の前にいて、話てリアクションを受け取る、っていうのがずっとやりたかった』(同上)だったり、本気でそれだけだとは思えなかったり、必ずしも落語に特定される理由でもない。
この「落語」にこだわる理由を抜きにしての議論は確かにしにくいだろう。

数少ない落語2.0に言及しているサイトも、
こころはどこにゆくのか?- ささやかな疑問を解消するのに必要な時間はささやかではない

つまり、どうして落語と名乗らなきゃいけないの?ってとこだと思う。実は、そこに一番の問題があるんじゃないかな。

はてなブックマーク - あのはらっぱへと続く道 / 2006年11月18日

それは「漫談」という形で既に実現しているのじゃないかとも思う。

これらサイトも、なぜ落語と名乗る必要があるのか。漫談でいいじゃん。とにべもない。

岡田が「落語」にこだわる理由はmixi日記や氏の従来の主張から、ある程度推測できる。ただ、邪推に近い結論しかでてこなかったので、今回はこれ以上述べない。

でもう1つの理由。

それは、落語2.0のイベント全体はさておいても、そこでの岡田のパフォーマンスがつまらないということだ。

まずもって、イベントの感想自体が少ないのだが、ここ以外で唯一みつけた評価がこんなの。
ぐうたら主婦のぎりぎりカウントダウン(2007-01-21)

何しろ今回は『トリの岡田さんの噺が一番面白くなかった』んですよ。

私の感想も以前書いたとおり、パチ助と茎丸は面白かったが、岡田のはみててツライところがめだった。岡田が述べる「なまじ面白いから腹がたった」というのがどこからでてきたのか不思議なくらいだ。

そこで、岡田自信も「勉強会」と名乗っているくらいなので、ここで具体的な駄目出しと、どう対応したらいいかを提案してみたい。
なお具体的な感想が他に見当らないので、私の感想のみを手掛かりに話をすすめる。

まず、話の内容は興味深いのだが、座っている岡田の姿を30分間ずっと見続けるのがつらかった。座って、和服きて、手の動きと話だけで観客の注意を引き付け続ける技術が岡田に無いのである。
以前の感想で述べた通り、始まって15分から20分位のところが特に非常につらかった。
従来の講演で観客が集中していたのは、多分、岡田の話であって岡田の姿ではないのだ。ここは岡田が見誤っている点だろう。

ではこれに対して、岡田はどうすべきだろうか。

古典的な落語であれば、手の始末をつけて静と動のメリハリをつけ、視線を隅々まで常に配るようにして客の注意を放さないようにしている。
ただ、これを身につけるには古典的な修行で5、6年ほど鍛えないと駄目だろうし、やっても下手糞な古典落語家が1人できるだけで、つまらない。
それに多分、この技術は芝居的な咄で効果的になるようにできており、岡田が目指す世間話にはそぐわないと思う。

では他の方法はあるか?

ヒントはいくつかあると思う。

先程引用した感想や私の感想で、茎丸とパチ助は面白かったと思ったことは1つのヒントだろう。

あるいはタイガーアンドドラゴンの長瀬の「落語」。
長瀬が、座布団に座った所からは動かないまま腰から上をくねくねと派手に大きく動かし、落語の素人らしさを出しながらも、観客の耳目を引く「落語」を演じたのがもう1つのヒントになると思う。
彼はさらに、アイドルらしい目線の強さでそれをはなさないのだが、それは素人が真似するのは多分、無理なのでおいておこう。

古典落語の技を持たない者が落語的な演出でで勝負して勝てる訳がないのは岡田も自覚している。これらをヒントに、なにか注目を引きつづける道具や技を使ってみてはどうだろう。

茎丸のようにプロジェクターを使うとか、最近の漫談によくあるフリップも手だろう。パチ助のように実物を使うのもありだろう。

以下のサイトはプレゼンテーションのコツを説明しているサイトだが、何か「モノ」を使って説明することの有利さを上手く説明しているので引用しておく。
オブジェクト使用型説明術のすすめ | i d e a * i d e a

こうして「モノ」を使って説明を展開していくだけですごくわかりやすくなる。
    (中略)
  • 人は動くものに注意を惹かれる。モノを登場させてその間に指を走らせることによって聞き手の注意を惹ける。
    (中略)
  • モノを使わない場合、話し手の顔を見ることになる。ちょっとした話ならいいが、長い話だと目をそらしたくなる。目をそらすと他の事が気になる。集中できない。モノだと見続けていても平気。
    (中略)
ただ単に口で説明したり、身振り手振りで説明するより、ぐっと話がわかりやすくなるのでおすすめですよ。

あるいは、講演会みたいに納まって静かに話すのではなく最初から全身を使って動き続けてみるというのはどうだろう。講談ではハリセンを叩く動きと音で耳目を引き続けている。1月の勉強会でも最後の10分は興にのったか手が激しく動き出して、楽しく見れたことは付記しておく。

さらに服について。

茎丸やパチ助が前座でも着ないような派手な服だったのとは対照的に岡田は真打ちみたいな黒い服を着ている。真打ちのような技が使えないのであれば、観客の注意を引き続けるためには、派手な服のほうがいいのではないかと思う。

例えば立川談之助が、(意識して演出しているかどうかまでは分からないが)芝居の入らないオタクウンチク落語を演じる時には、つとめて派手なイラストの入った服を着ているのは、参考にしたほうがいいと思う。

ということで、まとめ。
 落語2.0で岡田は、話の中身を面白くするのも必要だが、自分の姿を見続けさせる工夫をもっとすべきだ。
例えば道具を使ったり、もっと身体を動かしたりしたほうが良いんじゃないかな、というのが今回の結論。

(関連する記事)
落語2.0は何か(2007.01.28)
落語2.0見てみた(2007.01.22)
岡田斗司夫の「落語2.0」(2006.11.23)

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2007.01.28

落語2.0は何か

岡田斗司夫が落語2.0と称して、新しいことに取り組んでいる。岡田主催の勉強会が12月19日1月21日に渋谷で開かれ、多彩なゲストが参加して実験が進められている。

岡田が落語2.0で目指すものは、素人が落語の形式で色々やることまでは判るが、それが既存の落語をどう関係してどう違うのかが判り難い。そこで手掛りとして、岡田が出している『月刊岡田斗司夫3号』を中心に読み解きながら、落語2.0は何かを整理してみたい。

岡田は、落語の問題を落語そのもの、落語家、落語ファンの3つにあると分析しているので以下それを踏まえる。整理の視点は色々あるが、ここでは「岡田が(少なくとも表向き)何を主張し、何をやろうとしているのか」で整理し、判断は「それを突き詰めていくと、俺達は面白い演芸を享受できるのか」を目安とする。

○落語について

では岡田は今の落語について、何が不満で落語2.0を始めようとしたのか。

ところが、岡田は今の落語をつまらないとは(少なくとも直接的には)どこにも書いていない。白鳥は面白い、喬太郎も面白い、自分はこの人たちに勝てない。米朝の地獄八景や枝雀にはゾクゾクきたと言っている。

これは岡田が戦略的に表明しないようにしているだけかもしれないが、落語に対して駄目出しをしているのは「芝居的寓話的な話だけで、それ以外のジャンルが無いこと」の1点のみ。そして、落語はもともと何でもありだったのが、一人芝居を始めてそれが主流になったもであり、江戸前期の落語に戻せば活性化すると考える。

落語の内容に対して直接否定的なことを言っているのは以下の2点。


  • 談笑、白鳥、志ら乃の様な落語オタクに媚びる業界内輪話や意味の無い過激化は駄目
  • 白鳥はマクラは受けるがネタに入るとテンションが落ち、ネタのクライマックスでマクラとようやく同じテンションになる。すなわちマクラの方が面白い。

そして、これらを踏まえて、岡田は新しい落語のバリエーションを増やすべきだと主張し、このマクラとネタの関係をから、マクラ(みたいな世間話)だけでもいいではないかと言っている。

これら分析について個人的な感想を言えば、前者で引用している上品な観客の非難は、そのまま岡田自身が落語2.0 の勉強会で投げ付けられている非難と同種である。この岡田の駄目出しは、岡田の目指すものと、この談笑等のグループが目指すものが単に違うということ以上のものではなく、本質的な否定にはならないのではと思われる。

後者については、落語は構成的にこうなりがちであり(地獄八景みたいにドッカンドッカン笑いが続くのもあるけど)、落語が物語であるかぎり避け難いと思う。1時間もテンション高いままの物語を聞かせるのは心理的に難しいと思う。マクラだけでも良いというのは後述するようの私もそう思うけど、その根拠とするには、この例はちょっと違うと思う。

○落語家について

落語家の世界について閉鎖的でマイナスなイメージがあり、自分はここには参加したくないと言っている。今の落語家は面白い落語を話そうとしてるのでは無く、良い落語家になろうとしている。これでは新しい落語のバリエーションは出ない。徒弟制度は普通の人をそこそこにはできる点は評価するが、才能のある人を伸せられない。挑戦したけど失敗した先人、悩む先人として、米朝や小朝の例を挙げ、落語世界は大衆化してパイを広げないと、いきづまるだろうと述べている。

○落語ファンについて

今の落語ファンは教養主義で落語オタク。教条主義というのは、これは落語じゃないという人だけど、教条主義的な駄目出しはシェアを削りジャンルの衰退を招くだけ(SFの様に)。面白くなくてもちゃんとした落語をといっているようでは新しい落語はでてこない。落語の分母はこのままでは広がらないと述べている。

○落語2.0で目指すもの

では落語2.0で何を目指すのか。

落語は大衆化しなければ滅びる。落語をする人の分母が少ないのが問題である。面白いの幅は広く、物語だけでもないし、今のピン芸人の様な笑わせるだけというのも違う。興味深い話をへえと聞かせるのも面白いだ。

落語の定義を広げよう。最低限のレギュレーションとして、和服で座布団に座って話すだけにし、普通に話して面白い人達が和服で座布団に座って話すのを落語にする。漫画はそうやって間口を広げて隆盛してきた。落語も同じように間口を広げようというのが、岡田の主張である。

それでは、岡田の主張の内容を評価してみよう。

○落語の歴史

まず落語の歴史認識が違う。拙論「むかしの落語いまの笑芸」にもあるとおり、江戸時期は小噺から、芝居噺が主流であり、岡田の言う世間話が主流だったことは無い。そして岡田の目指す江戸前期は小噺がメインの時期である。世間話は、坊主の説教に近いんじゃないかな。

ただルネッサンスというものは大概、過去に理想を仮託して、あたかも実際あった過去のように語られるものだから、そこは違うということだけ指摘しておこう。

○落語の最低限のレギュレーション

着物を着て座布団に座るというのは、大衆化の壁を下げる意味ではまだまだ壁は高いのじゃないか。座布団はともかく着物を普通の素人が着る習慣は無いし、一式整えるのに数万円かかるのは敷居が高い。

外形的な縛りは座布団に座るだけ。背広を着て座布団に座る。Tシャツジーンズで座布団に座る。古典的な漫才師のように異装して座布団に座る。どれでも良い気がする。和服の効用を考える時に、だれか全身タイツ落語にとか実験してくれないかな。

ただ、戦略として落語家に見えなければならないという判断かもしれないし、着物すら着なかったら、はなから落語と違う演芸として見られる恐れがあるから、こういう判断になったのかもしれない。戦略として当面和服をというのも理解できる。この辺は効果、副作用どうでるか見守りたい。

○話の内容

何を話すかは課題だと思う。高座に座って、ネタではなく面白い世間話を言うというのは、今までやられてないわけではなく、私が思いつく限りでも、


  • 桂文福の1人バラエティ落語
  • こぶ平だったころの正藏の寄席の雑談だけの高座
  • 先日のBS笑点(2007.01.06放送)で木久蔵が世間話だけで一席
  • 花禄が朝のバラエティショーでニュースを一人語り
  • よく考えると林家三平がネタをやっているところの記憶が俺には無い

などなどが挙げられる。このあたりを岡田はどう評価するかは聞いてみたい気がする。

ウンチク芸としては、漫談でケーシー高峰は残ってるけど、ミスター梅介は今見ると辛いし、ニーズとしてどうなんでしょう。岡田斗司夫(吉祥亭満月)以外の者が挑戦する怪獣話やエロ話の方に未来がありそうな気がする。

○落語2.0の今後

では落語2.0は今後良くなりそうかというと、それは分からない。

これは私の持論なんだが、古典は何も考えない人がずっとやってきた結果がこうなったもの。何も考えないで1から始めると、個体発生が系統発生を繰替えして今の古典にいきついてしまう。例としては、新しい音楽を始めたはずのフォーク、ニューミュージックの歌手がことごとく演歌にいっているのが挙げられよう。谷村しかり、堀内しかり、岡林しかり。徒手空拳で壊すことだけ考えて一から始めると、2年くらいして、やはり古典は凄いよなと、言い出し兼ねないのはちょっと嫌だ。

俺達は「その先」が見たい。

桂文珍も前は色々シンセサイザー落語とかゴンタな挑戦をしていたけど、今は落ちついちゃって古典をやっている。そんな落ちは何度も見ている。私が笑芸を分析しているのは、理論を踏まえることがその先に行きやすいと思って居るからだったりするわけだ。

メイドカフェの例えは判りやすいんだが、でもメイドカフェが、仙台サンモールの「かぼちゃの花」の様に、メイドの格好のウエイトレスが、談話室滝沢みたいなきっちりした接待をしたら、これはメイドカフェじゃないと怒るだろう。落語ファンでない一般の人が何が見たいか聞きたいかは、どこかで設定しないと、間違える可能性がある。

それにウンチクな話だけだとちょっと前の漫才と同じく新ネタ地獄に落ちる可能性もある。

というふうに、落ち込みそうな罠はあちこちにいっぱいあるんだ。

落語2.0は、まだ拡散することを宣言しただけ。

岡田以外に、岡田と違う方向に走る人間が居ないと、岡田がタコツボの1つに落ちるだけで終わるようなきがするから、先にでた談笑、白鳥グループでも、あるいはまったく違う方面でも、ちゃんとまとめて評論されるようになるといいなあというのが、今回のまとめである。

(関連する記事)
落語2.0への提言(2007.02.07)
落語2.0見てみた(2007.01.22)
岡田斗司夫の「落語2.0」(2006.11.23)

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2007.01.23

落語は文体である

「雑談みたいな落語」について調べていたら約5年前にこんなタイトルで日記を書いていたのを思いだした。笑芸評論の方でまとめていない内容もあったんで、一部修正して再掲してみる。

【2001.03.19の日記から】

先日のNHK教育TVの日本の話芸で文治の高座が放送されたが、その演題が「源平盛衰記ひろいよみ」源平盛衰記といえば、琵琶法師ないし講談の本で、しかもそれをひろいよみでは落語になるのか?

と思ってたら、文治がよむとこれがちゃんと落語になるんだ。

ちょっと調べても、東京かわら版3月号に載ってるだけで、花緑がシェークスピアを演ったっり、志らくがローマの休日を演ったりしている。本当に落語はモチーフを選ばない。

落語を落語たらしめているのはテーマやモチーフではなく文体なのだな、と思う所以である。

比較するに、例えば漫才は現代性、同時代性が売りであるとともに制限であって、時代劇や洋物、SFをモチーフにしたものは想像し難い。漫才芝居も同様である。これらはテーマやモチーフを選ぶ「型式」なのである。

とにかく、落語は文体なので何でも取り込めるし、実際、講談や他の芸能を貪欲に取り込んできた。今は落語が古典芸能扱いで、新作については落語にかぎらずオリジナリティ至上主義が強いのであまり誰も試さないけど、まだまだ、取りこめるものが、沢山あるのではないかと、つらつら思ったりしているのである。

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2007.01.22

落語2.0見てみた

ちょっと気になったので第2回・落語2.0お勉強会見てみた。
「これは落語で無い」という感想があったので、どんなのかと思ったら、思ったより普通に見れた。以下簡単な感想(文中敬称略)。

和服を着て座布団に座ると、誰が座っても舞台がすっきりして見やすい。これは意外な効果だ。さらに、怪獣亭パチ助と前立亭茎丸はスクリーンを使っているから、悪目立ちしないのがナレーターとして良い感じである。

吉祥亭満月は話だけで30分。これが、話にエンジンがかかるまでと始まって15分から20分たったあたりが、みてて疲れてしんどかった。話の内容はそこそこ面白くテンションもずっと高いが、両手が話の内容と関係ない動きをするので、頭が混乱して疲れる。特に満月は黒い着物を着ている上に、手が白くて大きいから、変な動きをすると悪目立ちをする。(パチ助、茎丸はプロジェクターやパソコンがあるので目立たない)ただ最後の10分までいくと調子にのるのか、両手が話を具体的に補足する動きばかりになり、見ててすっと得心できるようになる。(※これはもしかすると、落語を見なれてると手の動きに敏感になるからで、普段見ない人には平気なのかもしれない。他の人の感想とか聞きたいところだ。)

あと目線。話の調子に乗ると、正面を向いたままになるので、横で聞いていると、集中が途切れそうになる。同じく話を思い出す時に、目線が宙に浮くと、こちらに話しかけてる感がなくなって、これも集中が途切れそうになる。この話を集中して聞くのは30分位が限度かなあ。座ったままの人が、疲れさせずずっと集中して視線を引き付けるのは難しいのかも。ただ机と椅子で飲み物を飲みながらリラックスして眺めている人は平気なのかもしれない。

それと話の最後の締め。今昔物語か坊主の説教を聞いた気分。茎丸が特に明確なオチもなく終っても全然良かったように、余りキレイすぎるオチが付くのも変な感じがする。

落語家が高座でネタをやらず面白い世間話をするというのはそんなに珍しいことではなく(先週のBS笑点で木久藏が15分雑談をしていたりする。このへんは後日述べたい)、この落語2.0も別に「落語じゃない」という感じはしなかった。ただ仕草が前座さん並なんで、前述したように見てて疲れる部分がある。あと大概、現実の話になるだろうから、終り方は、毎回苦労すると思う。
満月以外は、和服着て座っているが、やってることはいつもの得意分野なんで、安心して見てられた。

だいたいそんなところだろうか。プチクリやオタクイズデッドも入手したので、落語2.0って何だろうかって話を追い追いしたいと思ってる。

(関連する記事)
落語2.0への提言(2007.02.07)
落語2.0は何か(2007.01.28)
岡田斗司夫の「落語2.0」(2006.11.23)

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2007.01.19

ボケとツッコミについて

本サイト「かたわら」に「ボケとツッコミについて」をUPしました。

緊張-緩和理論との関係や、落語の中のツッコミを整理しています。

まえにあげた「漫才の型について」の続きです。

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2006.11.30

噺家の視線/漫才師の視線

先日の当ブログの記事、「 落語とアイコンタクト」「落語とアイコンタクト:その2」を整理して、「噺家の視線」としてまとめました。

また、同じ観点で、漫才に関して整理し、「漫才師の視線」としてまとめました。

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2006.11.26

落語と着物

以前、落語の動作や小道具などについてまとめたときに、和服を着ることの利点欠点については言及していない。どういう効果があるかよく判らなかったからだ。
ところで、先日ここでも話題にした岡田斗司夫の「落語2.0」で、対談の相手だった唐沢俊一さんが日記で話題にしていて、落語家の和服着用について興味深い理由を示していた。

私に言わせれば、あれは衣装を着た独り芝居では絶対できない、複数の人間を演じ分ける、という落語の特性に適合した、ニュートラルな“誰でもない”衣装、である。
いま、誰も着ていない服装だからこそ、イメージでどんな服を着た人物にも、人間以外のもの(動物とか物体とか)にもなれる。

非常に納得できる理由である。落語の演技は7割くらいの没入で、座布団に座って小さな動作で演じることで、複数の人間を高速に演じ分けるのが特徴である。(→前述のまとめより。あ、「7割没入」は唐沢議長から教えてもらってたんだった。)和服はその落語の特徴を補強するニュートラルな服であるということだ。他にも理由はあるかもしれないが、これが大きな理由の一つであるのは間違いないだろう。

さて、では、ニュートラルな落語に相応しい服は和服だけだろうか。複数人を演じ分ける芸は落語だけではない。
例えば、パントマイマーが着る全身タイツ(に腰スカーフ)を着て、座布団か椅子にすわって落語をするとどうだろう。
あるいは、道化師(ピエロでなくてクラウンの方)が着る、組合せがデタラメな派手派手な洋服ではどうだろうか。

ちょっと面白いかもしれない。誰かやらないかな。

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2006.11.23

岡田斗司夫の「落語2.0」

岡田斗司夫さんが「落語2.0」と称して、自身が落語に取組むと言う。「新しい話芸」に取組むと言う。

具体的にどうかというと、上記日記から抜粋すると、
・「古典落語を現代に通用するようにリメイクする」わけではない。「架空のお話」という枷をとっぱらって、講義や講演をそのまんま「和服に座布団」というスタイルに持ち込みたい。
・高座に座って着物を着て面白い話、興味深い話、高度な世間話をすれば、それが岡田の落語。今の落語に足らないもの。
てなところでしょうか。

いいぞ岡田ぁ、いろいろ試せー。

「らくご」はもともと「はなし」だったわけで、架空の物語である必要も爆笑である必要もないわけだ。桂小金治がやって後継が出なかった漫談みたいになるのか、はたまた立川談之助がやってるオタク談義みたいになるのか、あるいは別のようになるのか。

SF芸人だった岡田さんのことだから、「ただ芸を見せる」のじゃなくて、講演をちゃんと演芸にしてくれることでしょう。っつーか東大の講義の演芸みたいなものだったみたいですが。

初高座は21日だからもう終ってるのか。首尾はどうだったんでしょう。

(関連する記事)
落語2.0への提言(2007.02.07)
落語2.0は何か(2007.01.28)
落語2.0見てみた(2007.01.22)

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2006.11.06

落語とアイコンタクト:その2

落語とアイコンタクトの続き。

若手落語家の、アイコンタクトはどのようなものであるか、二つ目4人が出てくる早朝寄席で確かめてみた。

出演は、金原亭馬吉(入門6年目)、柳家三之助(入門10年目)、三遊亭窓輝(入門10年目)、林家たけ平(入門15年目)の4人。マエオキ、マクラ、本題の上下を振るときと地の話の時の目線に注目した結果、以下のとおりであった。

馬吉三之助窓輝たけ平
マエオキ正面を向いたままゆっくり見回す左右に振る左右に振る
マクラ少し左右に振る 左右に振る左右に振る左右に振る
上下目線が宙に浮く客と目線を合わせる客と目線を合わせる目線が宙に浮く
地の話 正面を向いたまま左右に振る左右に振る左右に振る
こうして見ると、二つ目でも最初の頃は、マエオキやマクラ、地の話で正面を向いたまま話し、上下を振る時でも目線が宙に浮いているが、長じると、隅々の客と目線を合わせながら、マクラやマエオキ、地の話をし、上下を振る時にも、客と目線を合わせて演技をしている。三之助以降は、見ていて非常に「落語らしい」感じがした。

目線に気をつけて落語を見ていると、目線が常に客に向いていること、隅から隅まで目線を配り続けることが落語の基本的な特徴なのではないかと感じる。

それは落語が、観客に見せる一人芝居ではなく、常に客に語り掛ける「話芸」であることの証左なのだろう。

(2006-11-25 追記)
笑芸評論のサイトでまとめなおしました。

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2006.11.01

漫才の分析

先日、こちらと同じように笑芸評論をしている漫才構成術というサイトを見付けました。「漫才という文化」のリンク集に一緒に並べていただいています。

中は漫才の作り方に着目した記事で、漫才の会話を「フリ」「ウケ」「ツキ」「カエシ」「ハナシ」と分類して、そのいろいろなパターンを示しています。

この分類は興味深いですが、実際の分析では「ツキカエシ」や「ハナシウケ」のように複合して使用することが多く、ちょっとまだ使いにくい概念かなと思われます。

これを改造させてもらうなら、まず、漫才の会話を全て「フリ」か「ウケ」であるとしそれを基本属性とします。そしてその基本属性に「ツキ」「カエシ」「ハナシ」などの付加属性があるとすると考え易いのではないでしょうか。

こうすると「ツキ」以下は全部「ウケ」の付加属性であることが判ります。

また、以前私が、「漫才の型について」で考えた「ボケ」「ツッコミ」は付加属性としてとらえ、「ボケたフリ」「ボケたウケ」「ツッコミのウケ」「ボケたツッコミのウケ」などと表現できます。そして、何を指しているか具体的になるので、例えば「ツッコミのフリ」が存在しないことを言葉で表現できます。

この基本要素の名前「フリ」と「ウケ」は、これから使わせてもらうことになるでしょう。こういう名付けによって頭が整理されるのは凄い気持ち良いです。

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2006.10.29

落語とアイコンタクト

9月24日に、東北大学落語研究部が大阪と東京から落語家を呼んで勉強会を開催した。番組は以下の通り。


  • 剛家茶夢風流(学生) 権兵衛狸
  • 笑福亭遊喬(上方落語) 堪忍袋
  • 立川志ら乃(東京、立川流)火焔太鼓
  • 仲入り
  • 志ら乃 粗忽長屋
  • 遊喬 住吉駕籠

この勉強会で、素人の学生とプロの落語家を並べて見ることで、上手い落語家はどこが違うかについていくつか発見があった。今回はそのうちアイコンタクト(視線)に着目して延べてみたい。

○マエオキ
(※マエオキとは野村雅昭が提唱する落語のパート分け『マエオキ』『マクラ』『本題』『オチ』『ムスビ』の一番最初の部分で、あいさつや時候の話等。)

素人や前座はマエオキの時に、頭を下げたあと正面を向いたまま話しマクラにとりかかる。
ところが、志ら乃や遊喬は下げた頭を上げるときに、左右上下手前奥に細かく激しく動かして顏を向け、客席の全ての客と目を合わせるような仕草をする。これはこの2人だけではなく、例えば三遊亭好樂(『シブヤらいぶ館』NHKBS10月24日放送で確認)、笑福亭鶴光(『日本の話芸』NHK教育10月21日放送で確認)も同じような仕草をしている。

この仕草は一般的には落語家が客層を見ていると言われているが、全ての客とアイコンタクトを取る(全ての客に「落語家が自分とアイコンタクトを取った」と思わせる)ことに意味があるのではないかと予想している。例えばアイドルがコンサートで数万人の観客全てに、自分と目線が合ったと思わせているように。

○マクラ

落語家はマクラを話す時にも客席の隅から隅まで視線を配り続けている。前述の好樂は向って右からゆっくりと左へワイパーのように顏を回し、また右へ戻るという仕草をマクラの間中続けている。鶴光は、向って左→正面→右→左→正面→右と繰り返す。歌丸にしろ樂太郎にしろ、それぞれやり方は違うが、隅から隅まで視線を配りつづけている。

マエオキの時ほど念入りに視線を配らないのは、一度、アイコンタクトをしているので、軽く配るだけで十分だからではないだろうか。

素人の場合は、正面を向いたまま話すことが多い。前座クラスでも、正面を向いたままか、笑いを取った反応を確かめるときにちょっと視線を振るくらいに止まっている。

○本題 上下を振る時

落語で、人物の演じ分けをするときに顏を左右に振る(これを上下を振ると言う)が、素人にありがちなのが、顏を振ったときに視線が真横を向いてしまい、横の人と話しているようになっている。まるで横にいる仮想の人とコントをしているように。落語家は左を向いたときには正面から左の客に視線を向け、右を向いたときには正面から右の客に視線を向けている。客と視線を合わせ続けている。

コントや(一人)芝居は、客席の方へ話すことはあっても客と視線を合せては話さない。ここが落語と演劇が、大きく違うところじゃないだろうか。どいういう意味があるのかはよく判らないが。

○本題 地の話

落語で会話ではない説明(これを地の話と言う)をするとき、素人や前座は正面を向いて話す。さらにいえば素人は目線が上に泳いで、暗唱をしているみたいになりがちである。

これが落語家になると、地の話をする時にもマクラの時と同じように視線を配っている。好樂はワイパーのように顏を動かし、鶴光は左、正面、右と顏を向ける。地の話は暗唱ではなく、客への説明、客との会話であるから、視線を客に与えることは大事である。

ちなみに講談では、地の話を正面を向いたまま語っている。(神田伯龍 『日本の演劇』NHK教育10月28日放送で確認)この違いは何だろうか。

○まとめ

以上、落語において、素人、前座とプロの、アイコンタクト、視線の配り方が大きく違うことを指摘してみた。客と目線を合わせる力が特に初心者あたりの落語家の力量を測る1つの目安になるのではないだろうか。
これについては、視線を配るから上手いのではなく、上手いから結果として視線を配る余裕ができるという解釈も可能だが、客に伝えると技術としての視線について意識してみることは意味があることだと考える。

それでは同じく演芸の漫才の視線の扱いはどうだろうか。これはまた稿を改めて述べてみたい。

○関連する記事
落語とアイコンタクト:その2

(2006-11-25 追記)

笑芸評論のサイトでまとめなおしました。

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東北大学落語研究部落語発表会

141の5階エルパーク仙台というところで無料でやっていたので見てきました。

番組は

  • 何出家念(なんでやねん) 寄合酒
  • ぺなる亭きっく 道具屋
  • 何侘亭大介(なんちゃていだいすけ) 出来心
  • バラエ亭パック 青菜
  • 剛家茶夢無流(ごうやちゃんぷる) 三人無筆
  • 仲入り
  • 悶々亭凡寿(もんもんていぼんじゅ) 穴どろ
  • 笑富亭勃湖(えふていぼっこ) 寿限無
  • 北通亭遊楽(ほくつうていゆうらく) 野ざらし
最初の休み無し落語5席連続は、上手い人が出ても拷問だったと思う。まして素人をや(笑) 初舞台が2人いて、大学生の素人なので下手なのは当然なのだが、 朗読みたいだなとか、 前座みたいだなと思えるところはどこか、 見苦しく感じるところはどこかとか注意深く見ることで、 逆にプロの落語家はどこが凄いのかがちょっと見えた。(詳しくは別記事で)

共通に目についたところでは、まず座った姿勢が猫背で手が前すぎになってしまい素の話の時に、手が悪目立ちする。さらに猫背がゆえに、手に重心がかってしまって、演技の時に手が上手くうごかなくなってしまっていた。 あと朗読じゃないんだから、視線は宙をおよがさずに客にあてるほうが伝わると思う。 舞台度胸がつかないと、なかなか難しいとは思うが。

欠点を言うだけではなんなので、良かったところも。

大介は、マクラからハナシへ入るところが見事で感心した。 それに滑舌もよく、通りの良い声で聞きやすかった。初高座とは思えない。 パックは姿勢が非常に綺麗で、声の通りが良かった。 マクラの時に客を眺め回しながら話す落ち着きの良さがハナシの時にも出ればなあ。 着物のエリとソデがずっと乱れてたのと途中でハナシを度忘れしたのはご愛嬌。がんばれ。

茶夢無流は4年生だけあって落ち着いたもの。 彼も姿勢が猫背で悪いんだけど、手の位置が良く、上下を振る時に、御隠居、奥さん、ダンナ、カカアを微妙に手の位置でも演じ分けていて見事。仲入り以降は皆そつなくこなしていました。

お知らせでは、12月3日に同じ141で東北学院大学落語研究会の合同落語発表会(この東北大と合同なのかな?)があるらしい。最初にも書いたけどちょっと拷問なところがあるから、どうしようかな(笑)

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2006.09.24

宮戸川のサゲ(4)

前のエントリーに関連して、宮戸川のサゲについて他に工夫している例は無いかと探してみたら、 円窓が宮戸川の例の後半部分を、陰惨でなくし、 サゲも現代にも判りやすいサゲに変えて演ったという記録が↓ここに。

http://ensou-dakudaku.net/teirei/office.htm

愛宕山のサゲ(「下に忘れてきた」)を拝借したとのことだが、どんなんだったんだろう。気になる。

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宮戸川のサゲ(3)

花緑がBS笑点で宮戸川を演っていた。演出自体はフツーだったんだがサゲが秀逸。

叔父さん家の二階で煮えきらない半七に、雷に乗じてお花が積極的に迫っていき、

「このあと2人は結ばれるわけですが、これから半七、お花の尻に引かれ続けるという、宮川大助花子、なれそめの一席でした。」
でサゲる。わはは。すかされた。けど、文七元結みたいな終り方でこれもありだし、かかあ天下なコンビがあれば時代が変っても使えるし、実は、宮(戸)川花子で名前や題名と微妙に辻褄があってるし。(あってるのか?)

花緑も、笑点(BSだけど)で自分からこんな変化球を投げるほど面白い人だったんだなあ。

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2006.09.11

笑芸評論

本サイト「かたわら」に 笑芸評論を3つアップしました。

特に漫才の型についてで、ボケとツッコミは相対する概念ではなく、内容の特徴と行動の特徴に基く直交する 概念として定義して、80年代前後からの漫才を分類してみました。

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2006.08.15

笑maga復刊

2年ほど前に休刊した、上方演芸マガジン「笑maga」が復刊しました。いわみせいじさんのイラストが表紙です

通巻51号。内容は「天満天神繁盛亭にかける夢(桂三枝インタビュー)」など。以前と同じく年3回の発行の予定で次回は11月だとか。ふーん、繁盛亭は新宿末広亭がモデルかあ。それは良いかも。

連絡先とかネットの上にないけど、多分、高見さんの「大阪シナリオ学校/講師ブログ」あたりを見てれば、まもなく掲載されるんじゃないでしょうか。

さて、個人的には 「東京かわら版」のアオリ文句、 「日本で唯一の演芸情報誌」が、いつごろどう変るかがちょっと気になります。

(追記)笑magaの連絡先が、週刊 落maga/Vol.127にありました。浜さんところに葉書で申し込みですね。

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2006.08.07

仙台七夕寄席

川野目亭南天「ふるまい酒」

七夕の企画で、稲荷小路のおでんや三吉の2階にて、 東北弁の落語「東方落語」の七夕落語会が催されました。 演者は川野目亭南天。七夕で会を開くのは今年が初めてだとか。

東北以外に、関東や関西からもお客さんが来ていて、最初15分はマクラの東北弁講座。 身体の部分の名前(ひたい、まゆげ等)、東北弁に特徴的な発音(「き」や「ぴ」が、破擦音になるなど)を、 面白おかしく説明する。楽しい。ネタは「ふるまい酒」。南天師は昔話出身だったかな?んだもんだから、 ばっちゃが昔話をしているような高座だった。

ちょいとエピソードを詰め込みすぎた感じ。はりきり過ぎたんですかねい。 場面が展開しないままクスグリが続くんで、途中でちょっと疲れました。 昔話みたいに繰り返し多用するとか、場面がどんどん展開するとか、もちょっと整理すると良いかも。

さらに演技の仕草全体が、江戸落語や上方落語と違って、炉端で語る昔話の仕草みたいでちょいと面白かった。 これが東方落語の流儀なのか南天師独自の特徴なのかは判らないが、 「東北文化」みたいな色があって良い感じである。

(2006.08.14追加)
七夕寄席を取り上げた他の日記

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2006.08.03

漫才:米粒写経

先日、浅草東洋館のエンタメヒットパレードで米粒写経を観た。

ボケのボケ方が徹底していて、とにかく意味の無い動作を仕掛け、相方が冷たく突っ込む。 その徹底度合いと繰り返しで、激しく笑った。 東京ダイナマイトに似た感じだと思ったら、片方はダイナマイトのハチミツ二郎と組んでたことがあるそうな。納得。 笑いだけで言うと、今年の一押しのコンビになるかもしれない。

ただ、東京ダイナマイトの時にも感じたんだけど、終ったあとに爽快感や心地良い笑い疲れが無い。 何にもなくてただ「笑い」があるだけな感じがする。それもちょっと嫌な感じの。何も無いというとパイソンのナンセンスもそうなのだが、あちらには混乱があってそのメマイが心地良いのだ。

それがどこから来るのか、いまのところ以下の点じゃないかと思っている。

  1. 会話を成り立たせようという努力が無く、コミュニケーションを拒否したところから漫才が始まっている
  2. 冷徹な突っ込み役が一回も崩れない。

私が思うに、漫才、特に関西系の漫才は、会話を成り立たせよう成り立たせようと、 努力して努力して努力して、でも変になって駄目でしたで笑いを取るのが基本だと思っている。 なのに最初から会話を成り立たせる気が無いような構成なのである。 まあ「最近の東京の若者の会話」がそうなのかもしれない。そうだとすればこれはこれでリアルなんだろう。

2点目、突っ込み側の(演技上の)優越感が一回もくずれない。 落語なんかでは、与太郎側、劣等感側の逆襲が大きな要素の一つだ。 夫婦漫才で一方的に攻撃するのは、普段の生活で弱いと目されている女性の方で、 男性が突っ込みつづけ女性を攻撃しつづける夫婦漫才は無い。あったら多分、悲惨で見てられない。 東京ダイナマイトもそういう傾向はあるが、米粒写経ほどは徹底されていない。 上記の会話の不成立と合せて突っ込みが「愛のある突っ込み」には見えない。これも東京らしいと言ったら偏見だろうか。

さはさりながら、米粒写経の笑いはインパクトがある。彼等への不快感は、 「関西者の東京文化に対する違和感」「年寄が若者に感じる違和感」が原因である可能性は否定できない。 ともあれ、ちょっとイヤな感じだけど、米粒写経は要チェックや、ということで。

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2006.04.18

仙台若手お笑いゴングショー vol4 4月16日(日)

お笑い集団ティーラーズのメルマガで告知があったので見てきました。1回3分のネタで勝ち抜き対戦するというルール。

出演者は

  • ハンプティダンプティ(前回優勝)
  • 暗黒教団
  • ろーるきゃべつ
  • セカンドステージ
暗黒教団とろーるきゃべつは結成したばかり。最終的には結成5年目のセカンドステージが優勝しました。 セカンドステージは多分、出演者が足りなくて担ぎ出されたのでしょう(苦笑)
全般の印象は以下のところ。
  • ショートコントは、オチだけ言えば良いってもんじゃない。短い中で鋭くネタフリをしないと笑えない。特に暗黒教団。ハンプティダンプティは決勝戦の漫才も、オチ(ヘンなコト)だけ言うネタに終始していた。もっとネタフリとか広がりとか考えてみよう。
  • ろーるきゃべつは初舞台。でもネタに全体の流れを見た構成みたいなものがあって良い感じ。演劇出身なのだろうか。演劇に入る/素に戻るの往復のギャグも意識して使っている。あとは練り込みだ。
  • セカンドステージは1本目は賑やかで良いけど同じギャグのくりかえしだけだったのが残念。 エスカレートするとか変化するとか、広げないともったいない。2本目はさすがよくできていた。
  • モノマネのギャグを使うコンビが多かった。スパイスとしては良い(阪神巨人も使うくらいだから)けど、 よほど上手くないと、本筋のネタに使うと収集つかなくなるよ。
前回も思ったけど、みな舞台度胸があって、妙な緊張感が無いのは良い感じ。意気込みがあって下手でも見てて気持ち良く楽しい。生の板は良いねい。ちなみに暗黒教団の片方は、前回の佐藤賢治。

巡り合わせで、今回も新人のライブになってしまった。次回は仙台芸人の中堅以上のを見てみたいなあ。

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