カテゴリー「笑芸」の記事

2019.10.22

漫才とコントの違いについて

ずいぶん前に漫才とコントの違いについて考察をまとめたことがある。
(漫才とコント@路傍亭)
その後の笑芸の分析の中で、もうちょうっと整理した方が応用しやすいかなと
思うところがあったので、少し構成を変えて書き直してみる。

漫才とコントの違い

漫才とコントの違いは何かということは時々話題になるものである。
特に漫才の中にも芝居型式の表現がある。それとコントとの違いは何か考えてみよう。

まずは型式を比較する。

コント、特に純粋なコントは演劇の文法で表現されている。
なので舞台に立った時から降りる時までずっと役を演じている。
コント師の誰それではなく劇中の人物として登場しコントの終了まで劇中の人物としてありつづける。
会話は原則として劇の中で閉じており、観客に向かって話しかけることは基本的にはない。

漫才は、演芸の文法で表現されている。
舞台に立つときは漫才師の誰それとして登場し、観客に向かって話しかけて始まり、
相棒と会話や寸劇などをし、漫才師として漫才を終わらせて退場する。

間に挟まれたネタ(アンコ)が芝居形式の漫才も、最初は漫才師として話し、芝居を演じ、
最後は漫才師に戻って芝居を壊し終わる。

コントと漫才の違いは形式からして違うので、これは間違えることはないだろう。

芝居形式の漫才の分類

芝居形式の漫才の中に、よく見ると2種類あることが分かる。
1つは、間のアンコの芝居を切り出すとそのままコントとして成立する漫才である。
例えばサンドウィッチマンやダウンタウンの漫才がそれにあたる。
中の芝居が演劇の文法で表現されており、芝居が終わるまで劇中の人物でありつづけている。
これをとりあえず私は「コント漫才」と呼んでいる。
音曲漫才と同レベルの分類として、音曲の替わりにコントが入っている漫才という意味である。


もう1つは、間のアンコの芝居を切り出しても芝居として成り立たたない漫才がある。
芝居に入っても、劇中の人物から、途中で漫才師に戻ってつっこみをいれたり、
芝居を最初からやりなおしたり、登場人物を入れ替えたりして、
まったく演劇としては成立をしない、演劇ではなく演芸の文法でつくられた芝居がアンコと
なっている漫才である。
例えば中川家や笑い飯の芝居形式の漫才はたいがいこれである。
このアンコの部分の芝居について、とりあえず私は「漫才芝居」と
呼んでいる。

このコントと漫才芝居、どちらが優れているという優劣があるのではなく、
そもそも《文法が違う》ので《笑いの組み立てが違う》というところに違いが生じているのである。

漫才芝居とコントの比較

型式を比較すると、コント(漫才のアンコとのしてのコントも含む)は演劇の文法で表現されるので、コントが始まった時からコントが終わる時までずっと
コントの登場人物を演じているが、
漫才芝居は、芝居が始まっても、自由に芝居の登場人物から漫才師に戻って一端芝居を止めたり壊したりすることができ、また自由に芝居を始めることができる。
場合によっては登場人物を演じる者を交替することもできる。
漫才芝居は、いつでも、芝居の途中でも素の語り手に戻ることができ、その変化や落差が面白みや可笑しみを産みだしている。
落語家が噺の途中に素の落語家に戻った解説で笑かすみたいなもので、演出の方法論として理解するほうが妥当だろう。

漫才芝居の長所

漫才芝居の長所は、演技と説明の落差が出しやすいことである。判り難い状況 の芝居も、突込みで解説することで解らせて笑わさせることができる。
「突込みは愛だ/解説だ」といわれる所以である。
中川家の漫才芝居で、弟の一人芝居にそこに居るはずのない兄が出現してしまうネタがある。
コントではどうにも処理しようが無い不条理劇になるところを、漫才では素の漫才師にもどって兄を怒ればそれで笑いが生じる。
笑い飯の『奈良歴史民俗博物館』は、漫才芝居に入ってすぐにわかりにくいボケをかまし、相方が芝居を壊して突っ込みを入れることで爆笑をとり、
登場人物が入れ替わって同じことを繰り返すことで、爆笑ばかりの漫才に仕立て上げた。あるいは笑い飯には、芝居に入る直前で延々と寸止めになり
芝居に入らず終わるネタがいくつかある。これらはコントでは非常にやりにくいネタである。

漫才芝居の欠点

逆に漫才芝居の欠点としては、例えば「不条理な状況」に追い詰められても、素に戻って逃げられることが挙げられる。
こういう状況追い詰め型は、役を 「演じ続けなければならない」コントでなければ成立しない。
コントの方が高い緊張感を作り出すことができるのである。
コント55 号の坂上二郎苛めが成り立つのもコントだからだ。
藤山寛美がアドリブで共演者を追い詰める。漫才芝居だったら「なにすんねん」 の一言で終わってしまう所を、共演者も芝居で返さなければならないので四苦八苦する、それが面白い。
モンティ=パイソンでは不条理な状況に追い詰められるコントが沢山あるが、 漫才芝居だと「そんなことあるかい」の一言で終わってしまって何も起きないのだ。
コント漫才で、コントの最中に解説風の突込みを入れる場合は、コントの登場人物であることから逸脱しないようにする方が良い。
逸脱して素の漫才師として突っ込んでしまうと、その後では高い緊張感を得ることが難しくなってしまうのである。
ダウンタウンやサンドウィッチマンのコント漫才の突っ込みは、分析してみると登場人物から逸脱して素の漫才師に戻らないように注意深く台詞が練られている。

まとめ

漫才芝居とコントはよく似ているが、使われる文法が違うので、ネタによって上手く使い分けないといけないことを理解しなければならない。
漫才とコントに限らず、笑芸一般について、どんな文法で笑いを生み出しているのか、 もっと掘り下げられてもいいと思われる。

 

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2018.10.27

AKB48グループの歌は演劇的というよりは演芸的である

先日、HKT48のライブイベントを見る機会があった。といってもサッカー場で Jリーグの試合が始まる前のイベントであるが。

ライブが始まるとまもなく、HKTのメンバーはフィールドをぐるっと囲うように散開し 観客席のすぐそばで観客席に向かって歌い出した。これは普通の音楽ライブとはちょっと違うなと 感じた。サッカー場のような広い場所での音楽ライブは、 普通はフィールドの中央で朗々と歌い上げそれを観客が《観る》ことが多いが、 HKTは観客席の目の前で、観客と視線を交わし、微笑みかけ、互いに手を振り合いながら、 観客に向かって歌うのである。

落語や漫才で《台本》《演技》と並ぶ要素で、演芸のエッセンスである(観客との) 《交流》の要素が歌っている間もとても大きな割合をしめているのである。 ライブ画像等を見れば、これはAKB48グループ全体にいえることだろう。

これが『AKB48グループの歌は演劇と言うよりは演芸的である』と題した由来である。
分かっていたひとにはいまさらかもしれないが。

  • 《交流》が演芸のエッセンスであることについては→「落語の要素」@かたわら 参照
  • 「歌」が演劇的であることについては→「歌と演劇と演芸」@かたわら 参照

普通のコンサートでは、「歌」は《演技》100%な演劇的で、《交流》はMCの時になされる。 AKB48グループは歌っている時も、観客と目線を合わせて《交流》を行っており、 それは落語家や漫才師が観客と目線を合わせながら演技や話しかけをするのと 似ている。

AKB48グループの常設小屋が小劇場であることは、《交流》が大きな要素であることと、 たぶん相性がとても良い。歌が基本ユニゾンで地声歌いなのも「演芸」と考えれば しっくりくる。(たとえば「かしまし娘のテーマ」は大部分がユニゾンで地声ある。)

演芸的歌手は、アイドルに限らなければ、例えば大衆演劇出身の歌手はだいたいが演芸的である。 女子アイドル界での演芸的な歌手の嚆矢は、おニャン子クラブであることは明白であろう。 おニャン子クラブがバラエティ番組の企画から始まったことと《交流》の要素が大きいことは 関係が深いと考える。(先程の「落語の要素」の後半参照) 同時期の女子アイドルでも森高千里など演劇的な歌手は十分おり、 その系譜はいまも続いているので、新しいジャンルがここで分岐した、と考えるのが良いだろう。 このあたりの歴史的経緯とか歌手の分類、男子アイドル界への適用あたりを、今後考えると 面白いかもしれない。

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2018.01.28

鉄道ものまね:立川真司

2017年12月10日 爛漫ラジオ寄席(TBSラジオ)放送

駅や車内の場内アナウンス、電車の走行音などの物真似で構成した爆笑漫談。ほんと可笑しかった。

立川真司は、電車でGOにもかかわった鉄道物真似の第一人者で、物真似が似ているのはもちろんのこと、物真似の途中でも、ツッコミどころがあれば解説やセルフツッコミを入れて、ガンガン笑いどころを作ってある。結果、物真似がぶつ切りになるんだけど、物真似芸の完成度より、分かりやすい笑いやすい笑いの量を優先し、ラジオの収録という自分の知名度がどうかという場でも確実に笑いをモノにする姿勢が、演芸として凄いなと感じた。

そしてあいだあいだに繰り返される印象的なフレーズ「このあと駅(新幹線)のアナウンスを聞くと、この黄色いジャケット(立川真司のトレードマーク)を着た人が話しているように聞こえてしまうのです」、ほんとうにこのあと九州新幹線に乗った時に、このネタでは九州新幹線の物真似はなかったのに、車内アナウンスが、英語のも含めて立川真治の物真似に聞こえ、笑えてしまってしょうがなかった。これも笑いを取りながら自分を印象づけるいい技だなあ。

録音を何度ききかえしても可笑しい漫談でした。

関東以外では演芸のラジオ放送はNHKしかほぼ無いので、地方に住んでても東京の演芸のラジオが聞けるradikoプレミアムのエリアフリー、タイムフリーは、なかなかありがたいです。

参考:立川真司ものまね公式ホームページトップ

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2017.11.03

超入門 落語 The MOVIE 『井戸の茶碗』 (NHK総合) 2017年11月2日放送

以前から気にしていた『超入門落語the movie』(NHK総合)ですが、今回の『井戸の茶碗』は、演出が上手くて面白かった。

噺は喬太郎師匠。

高木氏と卜斎の間で清兵衛が右往左往する地の話の時は、ドラマにせず喬太郎師匠を映すとか、ドラマにするところしないところの整理が上手くできている。その中で喬太郎師匠得意のギャグ《「50両もらっちゃいましょうよ」と中間が悪人の顔をして懐にお金を入れる仕草》が、喬太郎師匠の画で、ちょっとアレっと思ったところ、そのテンドンの《清兵衛も悪人の顔をして懐にお金を入れる仕草》のところで、まさかの《清兵衛と中間がシンクロして悪人顔で懐にお金を入れる仕草》とギャグを膨らませてきた(笑)

落語は1人づつの演技なんで《清兵衛が、中間と同じことやる》という繰り返しのギャグになるところに、動作をシンクロしてやるという複数人で演じるドラマじゃなきゃできないギャグの膨らませ方をするという、落語とドラマの違いが良くわかってて、かつ、笑いを良くわかった人がやってるなあという感じであった。

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2017.01.22

超入門落語the movie(NHK総合)

落語をドラマ仕立てで放送しようという試みは何度もあったけど、大概は失敗するか、 笑い話とは別物の感動物語になってるんで、この「超入門落語the movie」 も期待せずに見たのだけど、これが強烈に可笑しい。

新しい特徴は、落語を俳優が演じ直すのではなく、落語家の語りはそのままで俳優は当て振りで演技をするという所。 落語の語りのテンポの良さ、場面転換の早さをそのまま活かした画面が妙に可笑しい。総集編のメイキングで、 俳優が落語家の語りの速度に合わせるのが大変だったと語っていたし、カメラワークが切り返しの時はセリフの度に ぱんぱんアングルが変わって普通のドラマと比べると目まぐるしいくらいである。普通の演劇と比べると落語のテンポはかなり速いようである。

このテンポの良さを残したまま、コミカルなビジュアルを加えたところが勝因ではないだろうか。

「元犬」の裸のおっさんや「紙入れ」の奥さんのビジュアルのインパクトは強烈だったし、 「粗忽長屋」の宿六や「目黒の秋刀魚」の殿様の与太郎な表情がじわっと可笑しい。 「お菊の皿」の、お菊の親衛隊や調子に乗った着飾ったお菊とか実際見てみると改めてバカだねー。

落語の面白可笑しさを紹介する番組として、大成功じゃないかなあ。番組の締めの言葉も良い。

《『なんでい、落語って面白れえじゃねえか』、なあんてもし思っていただけたなら、今度はぜひ寄席に足を運んでみてください。アナタの脳の中に映像が浮かび上がってくるはずです》

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小佐田定雄氏の落語観

林家正蔵の演芸図鑑(NHK総合;2017年1月22日放送)で小佐田定雄氏へ正蔵師がインタビューしてて、その中で興味深い発言があったので、メモがわりの記事。
逐語記録じゃなくて大意です。

(落語の魅力は?)最終的に裏切るから。せっかく作ったやつをいっぺんにボーンと壊すから。 ジグゾーパズルみたいにちょっとずつピースをはめて行って、最後のひとことをポーンといれたとたん、バラバラと壊れてしまう。消えてまうから、登場人物もあまり思いつめない。 愛宕山の「小判を下に忘れてきた」って普通は悲劇です。これが笑いになるのは、嘘でした、思い詰めませんよという芸だから。
(落語は起承転結の結が無いですよね?)そう、嘘でした。はい帰りましょう、ということです。

私の笑芸の分析の中の「落ちの考え方」や、「落語の演技」に通じるところがあるかなと。

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2017.01.20

M-1グランプリ2016の漫才を分類してみた【分析・感想篇】(ちょっとネタバレあり)

M-1グランプリ2016の漫才を分類してみた』の続きです。

全般の印象は、今回のM-1も、会話、漫才芝居、コント漫才それぞれあって、最終決戦もたまたまだろうけど漫才芝居、コント漫才、会話の漫才が1つづつでバランスが良いと感じた。決勝の3組はそれぞれの形式を上手く活用した完成度の高い漫才で、誰が優勝してもおかしくなかったと思う。

個別の感想で、形式的に面白かったのは、スーパーマラドーナのファーストラウンドかな。Aの1人コントをBが芝居の外から突っ込む形式は、下手くそな3人のコントでよくある2人の芝居に1人が芝居の外から解説するのに似てるけど、 サゲのどんでん返し(「エレベーターの中の人数が実は2人きりでなくて3人だった」、「田中は2人目でなく3人目だった」)について、1人芝居の文法とAの芝居が下手なのを上手く逆手に取ったミスリードで、さらに、全くのコントでやると観客に伝えるのに高い演技力が要る所をBのつっこみで解説することでわかりやすくした点で、よく練れた構成だった。 完成度は違うが九十九一のお笑いスタ誕の確か9週目の『殺人家族』に近いものを感じた。
ただ、前半の、Aがコントで可笑しいことをしてBが解説する部分は、 今回はミスリードを醸成するために必要ではあったけど、《下手くそなコントと同じ形式》である分表現が冗長で、笑いがモニョモニョした。

相席スタートも、後半の漫才芝居の《比喩的状況》の言葉を言葉通り《野球のバッターボックスの動作》として演ずる、設定自体がボケた芝居にしてしまった力技は面白かった。ただ、Bのボケた動作へ、Aがボケたつっこみをすることとなったので、全体的な可笑しみはあったけど笑いどころがボヤッとしてしまったのが残念。かといって会話で大いにボケていたAが漫才芝居になった途端に常識でつっこみだすのも不自然だし、どうしたら良いかは難しい。多分、女性のAがそのままボケた野球の芝居をするのが笑い的には正解だろうけど、男女の役割があってそう簡単にもいかない。上手く整理できるともっともっと面白くなると思う。

スリムクラブは、芝居を全く壊さないコント漫才に、Aが通常は漫才芝居で使うようなとんでもないボケをつっこんでくるのに対し、Bがじっと耐えて芝居を続ける構成がジワッと笑える面白い挑戦だった。 しかし、Bが芝居を壊さないつっこみだから、ボケの提示した緊張の解消が弱い欠点がある。その分ボケがどんどんエスカレートするとか、最後に大きく芝居を壊すサゲをいれるとか、もうひと工夫する必要があるなあと感じた。

和牛は正当なコント漫才。芝居を壊さないので緊張がどんどん上がっていって、最後のAがキレて暴れるのが大オチになる。ファーストラウンドも決勝も上手かった。

銀シャリは正当な形式のしゃべくり漫才。AとBの会話でAのボケにBが常識でつっこむがテンションが上がって、非常識なボケのつっこみに変化することで笑いをとった。

スーパーマラドーナの最終決戦のネタは、最初は芝居の中でボケてたのが、だんだん芝居の文法を壊すボケにエスカレートしていく(マゲのカツラが動作とズレる。裏番組から混じって来て切られる。)、漫才芝居の特徴を良く活かした良い笑いだった。

いろいろ書いてみて思ったけど、 まずは、分類をしてみて、漫才芝居やコント漫才をまでボケとつっこみの述語で語ってよいのかはちょっと疑問だった。明白なボケ役はあるにはしても、ここは課題としておく。
また、カミナリや銀シャリなどの《常識のつっこみ》が、だんだん正しさ過剰になって《笑いを上乗せするつっこみ》に変質する(例:「つま弾くな、いたずらに」「ドレミファソラスドって津軽の音階か」「うんちくんのゆるキャラもう下痢やから」)のに何か名前をつけたい。 常識の人間がボケのエスカレーションに引っ張られて狂気に踏み込んで笑いを上乗せする《つっこみ》を、春日(オードリー)のようなボケで笑いを取るとつっこみ区別したい。やっぱつっこみの分類は、述語を整理するためにちゃんと考えてみないといかんな。

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M-1グランプリ2016の漫才を分類してみた

M-1グランプリ2016の漫才を、以前と同様に分類してみました。

記述する項目は以下の(最大)3つ。

下2つについては漫才師のうち向かって左を《A》、右を《B》、観客を《客》とし てこれを表記します。

以下出演順

ファーストラウンド

アキナ
漫才芝居
Aがボケ。Bが常識のつっこみ。
カミナリ
会話
Aがボケの会話。Bが常識のつっこみ。
AとBの会話
相席スタート
会話/漫才芝居
会話:Aがボケの会話。Bが常識のつっこみ。漫才芝居:Aがボケのつっこみ。Bがボケ。
AとBの会話
銀シャリ
会話
Aがボケの会話。Bが常識のつっこみ。
AとBの会話
スリムクラブ
コント漫才
Aがボケ。Bが常識のつっこみ。
ハライチ
コント漫才
Aがボケ。Bが常識のつっこみ。
スーパーマラドーナ
1人コント+解説
Aがボケ。Bが常識のつっこみ。
さらば青春の光
会話
Aが常識の会話。Bがボケのつっこみ。
AとBの会話。
和牛
コント漫才
Aがボケ。Bが常識のつっこみ。

最終決戦

スーパーマラドーナ
漫才芝居
Aがボケの会話。Bが常識のつっこみ。
和牛
コント漫才
Aがボケ。Bが常識のつっこみ。
銀シャリ
会話
Aがボケの会話。Bが常識のつっこみ。
AとBの会話。

分析や感想は稿を改めて

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2016.10.06

動物物真似:江戸家小猫

2016年10月1日真打ち競演(NHKラジオ第1)放送

当代の小猫さんのネタをまともに聞くのはこれが初めてじゃないだろうか。江戸家の芸は、 ネタも入れているくすぐりもほぼ同じなのに、やってる人によって可笑しみがこんなに違うのか、という発見があった。

といっても悪い意味ではなく、当代の小猫さんは、生真面目が背広着てあるいているようなそんな話しぶりで 「この動物園づくしと云うのはやればやるほど拍手が小さくなっていくという欠点がありまして」なんて淡々と言っているのが ジワジワと可笑しくて大笑いしてしまったのである。

三代目猫八師匠や先日亡くなられた四代目は、いたずら坊主がからかうような江戸っ子の 茶目っ気が可笑しかったもんだが、同じくすぐりを石部金吉のように演って可笑しくするってのも凄いなあと思った次第である。

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2016.09.22

漫才:飛石連休[ネタバレあり]

真打ち共演 (NHKラジオ第1 2016年4月9日放送)で聞いた漫才。久々に飛石連休の漫才をラジオで聞いたら大変面白かったのでちょっとレポート。

飛石連休は岩見のちょっとテンポが独特のボケが特徴で、今回もそれに藤井が振り回されている。

前半は岩見の「プロ野球と草野球の違いは?」という疑問に藤井が定義を説明する度に、岩見がそれに当てはまらない例を見つけてきては混乱するネタ。昔からやっているネタだけど、エスカレーションが激しくなってて大笑いした

「プロ野球はお金もらってるひと草野球はお金もらえない人」「僕の友達こないだ草野球の助っ人いって2000円貰ってたで」「それはお駄賃やんか。それでご飯たべていける訳じゃないでしょ」「でも帰りファミレス寄ってたで」「1食だけやん。1年間とおしてとか無理やろ」「ならいくら以上がプロなん」「いくらじゃなくて、それでちゃんと仕事としてご飯たべれててるひとがプロ。食べれてない人は草」「じゃ、ぼく居酒屋でバイトしてるから草漫才師という」「いや悲しい悲しい」「ぼくらの事務所、いっぱい草芸人がおるで」で大爆笑。

「草野球やってるグランド、主に土、プロ野球は主に草の上。プロ野球が草野球で、草野球は土野球や。」「足場で名前が決まる訳ではないから」「路上でやるのはストリートバスケやし。ローラースケートとアイススケート足場が違うだけちゃうの。浜辺でやるのはビーチバレー。」「めっちゃあるやんけ、足場で名前が変わるの」「芝生でやるのがグラススキー」「まだあるんかい。足場スポーツ博士か」「‥はい?」のテンポの良い掛け合いも見事。

後半は岩見の居酒屋のバイトの話題から、クレーマーの漫才芝居に入るも、バイトで鍛えた謝罪力で全くボケずに1分演じ切って藤井からメタにつっこまれる所も大笑いした。

ここに上げてないネタも含め15分の間に4つくらいのネタにテンポよく笑いを詰め込んで、とっちらかることなく走りきり見事でした。

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