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2021.03.22

【ネタバレあり】物語の終わらせ方、虚構と現実 ―シン・エヴァンゲリオン劇場版を見て

シン・エヴァンゲリオン劇場版を見てきました。感想はいろいろあるのですが、映画を通じて思ったのが、この映画は《エヴァンゲリオンという物語を徹底して終わらせる》ことに腐心した映画だったなあということです。

そのためコンテンツとしては、ざっと主なものをあげるだけでも

  • すべての謎を説明する
  • 表現しきれてなかったモノを改めてすべて表現しきる
  • すべての登場人物に報いる
  • 終わりにふさわしい新しいテーマを示す

ことを行っており、1つ1の項目についていくつもの記事が書けるくらいの密度がありました。それらをすべて語るには私の手には余るので、今回はある1つの切り口で述べたいと思います。

それはシン・エヴァンゲリオンにおける《物語の終わらせ方の演出》という切り口です。

物語の終わらせ方については、以前、『モンティ=パイソンの「落ち」のないスケッチの考察』で考察したことがあります。簡単にまとめると、物語の落ちは観客を日常に返す仕掛けであり、その仕掛けかたは大きく2つありまして、1つは物語がウソ=虚構であることを明示する方法。(落語のダジャレ落ち、演劇のカーテンコールなど)もう1つは物語を日常=現実に接続する方法(昔話の「幸せに暮らしました」、映画のエピローグなど)です。

その考え方を踏まえ、シン・エヴァンゲリオンが、物語を終わらせるために虚構と現実をどのように使ったか見ていきます。

シン・エヴァンゲリオンは大きく分けると5つの章に分かれています。

  • プロローグのパリの戦闘
  • 第3ムラでの生活と労働
  • 南極へ向かう戦闘
  • 裏宇宙での碇親子の戦闘/対話
  • エピローグの駅

まず第1章のプロローグのパリの戦闘で印象的なのが、ヴィレのエヴァや戦艦がワイヤーで吊った操演で飛んでいること。飛べるのがヴンダーだけという状態で戦うためというエクスキューズはあるが、特撮映画のようなワイヤー駆動のエヴァや戦艦の戦闘はとてもシュールです。このシュールさで虚構性が徐々に印象づけられる一方で、操られる物体としてのエヴァや戦艦の質量をもつ実存性をにじみ出す、アニメ=虚構と質量を持つ現実の間に位置する《特撮》技術を使った、虚構から現実への橋渡しが始まっていることを指摘しておきます 

第2章、第3ムラの生活と労働は、日常の話です。とても美しいリアリティの高い自然の情景描写、「ホルスの大冒険」を思い起こすような原初的な労働の姿、BGMが「太陽がいっぱい」など名作映画のアレンジで、実写映画のような現実の章です。
ただ、エヴァのインパクトという厄災を経た第3ムラは、貧しいながらも幸せな世界ではあるが、近未来なのにまるで日本の太平洋戦争敗戦後のバラックとそっくりな姿で、真っ赤な外部との緊張状態でから閉塞的でいつ滅びてもおかしくなく、帰るべき日常、接続する現実ではないことが示唆されています。

第3章、南極へ向かう戦闘の章は、主にミサト、冬月など登場人物たちが心情を語る舞台としてあるが、全体として具体的でリアルな現実の第3ムラから、無機的、抽象的な物語の南極、裏宇宙へ移行する章です. 

第4章、裏宇宙での碇親子の戦闘と対話の章。ここで一番印象的なのが、ゲンドウとシンジのエヴァ2体がテレビシリーズそのままの場面の中で肉弾戦で戦うシーン。
裏宇宙が、人間が理解しやするするために作り出したモノというエクスキューズはあるものの、「ミサトさんの部屋」や「第壱中学校の教室」でエヴァが戦い、壁を破るとそれはベニヤ板で裏側はスタジオだったり、第3東京市での戦いで吹き飛ばされるビルは置いただけの模型だったり、空にぶつかって、それが書き割りであることが分かったりと、エヴァンゲリオンが虚構であることがこれでもかと描かれ続け、徹底的に物語のデプログラミングが行われた章でした。 

そして碇ゲンドウの恥ずかしい告白を聞いたあと《父親殺し》を成し遂げ、碇ユイ=綾波レイと別れて、レイと反対の「乳の大きいいい女」真希波マリと新しい日常を進む碇シンジという第5章。
第4章で物語を解体したあと、第2章にもまして美しい自然の描写から、そのままシームレスで現実の街の空撮へつながるように、きっちり日常=現実に戻り、また新しい物語が始まりました。

以上が、シンエヴァンゲリオンがエヴァという物語を終わらせるためにつかった演出の枠組みだろう、というのが今回の分析です。物語は虚構であると徹底して示し、現実へ帰還しました。

 しかも、それに加え、ただナイーブに「物語は虚構でした、意味がありませんでした」と手を引くのではなく、虚構と現実を往復しながら、「現実と虚構をまぜることで新たな現実を作る力とする(大意)」とゲンドウに宣言させ、最終的にはシンジがそれを実行し、すべての登場人物に報いる物語をつくり、現実に帰還して新しい物語を始めるというカタチで成就する。虚構は無意味ではなく、現実を変え、世界を勇気づける力があるのだという、長い物語の終わりにふさわしい、新しいテーマを示すことが、四半世紀も「永遠の祝祭」を続けてきた庵野監督の落とし前のつけかただったんだろうなあと、そう思うところです。

まだうまく表現する言葉がしっくり来てない雑な論考ですが、とりあえずのメモとして。

(2021-03-18 21:00記、2021-03-22 18:00公開)

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